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No.69 「考育」 (2010.7.16)

 考育という言葉は、私の造語です。「こういく」と読んで頂ければと思います。
 この言葉をつくったのは、10年程前の話です。大手小売業から依頼されe-learningの教材を製作している時
のことでした。パソコンを活用し一人で学習できるe-learningは社内教育には効率の良いシステムとして受け入
れられました。当時、その企業の悩みは、『紙のマニュアルはあるが、ゲーム世代の若いアルバイトの人達は、
なかなかマニュアルを読んでくれない。教育担当が全てのアルバイトに業務内容を教えられれば良いが、売場
のアルバイトの比率が高くなり、パートタイムのアルバイトに常にマンツーマンの教育をする時間も割けない』と
いうものでした。

 そして、パソコンを活用しそれぞれのスタッフが自分の好きな時間に自分一人で学習できるe-learningの仕組
みは非常に効果的な仕組みとなりました。この「自ら学んで成長する仕組み」をe-learningと言う言葉でご紹
介していたのですが、e-learningを日本語に訳そうとすると的確に表現する単語が無いことに気が付きました。
e-learningは、いわば、「自らで学び、自ら成長する仕組み」です。e-educationではありません。そう考える
と、日本語の『教育』という言葉が、少しおかしな意味に感じてきました。本来、教育の現場や職場でも同じ
ですが、主役になるのは教師側の人ではなく、生徒側の人になるはずです。ところが、教育という「教え育て
る」という言葉は、なにやら教える人が主体となった言葉のように感じられます。さらに生徒側の立場から「教
育」という言葉を見ると「受け身」的な表現になるのではないかと感じました。
明治における教育勅語という言葉は、教育を受けられない子供に道徳教育を広げるという意図においては「教
え育てる」という意味で良い時代背景であったと思います。しかし、現代においては、その意味が変わってき
ているのでしょう。今の時代に必要なのは、「教育=教え育てる」という意味ではなく、主体となる生徒側を中
心に「考え育つ」という主体性のある言葉が必要であると感じました。自らが学び、自らが成長することが本来
の育つという意味のように感じます。「考育」という造語はそのような発想から生まれたものです。

 私たち日本人は、子供のころから誰もが教育を受けていますので、その意味には誰もが一家言あるでしょう。
しかし、教えてもらうという根本的な姿勢に問題があるのかもしれません。現代の社会はほとんどの人が、教え
てくれることを待っています。親、先生、先輩、上司・・・教育だらけです。場合によっては、社会に出ても
『教えてくれなかった』ということを理由に自分の間違いを他人や親や上司の責任に押し付ける人すらいます。し
かし、誰かがこの教えてくれる人を乗り越えなければ、その人の成長も人が作り出す社会にもそれ以上の成長が
あるはずはないのです。

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