Home > バックナンバーNO.41~NO.50

バックナンバーNO.41~NO.50 Archive

■No.050 : 考育常善 2 (2008/12/09)

かなり前にご案内をしたのですが、当社の社是に使っている「考育常善」というのは、私の造語です。

日本には教育という言葉がありますが、これは「教え育てる」という意味ですから、
主体は先生・・・つまり教える側にあります。
この言葉に「これは、ちょっとおかしい表現だな・・・」と以前から思っていました。
本来であれば教える側ではなく、学ぶ側が主体であるべきです。
もちろん、どんな先生も会社内の上司も、学ぶ側の立場になって
話をしているのであろうとは思うのですが、
言葉というものは不思議で、この「教育」という言葉が
主体者を薄れさせるのではないかと私は感じていました。

そこで言葉を変えて、学ぶ人が主体の環境
「考えて育つ=考育(コウイク)」などという造語を勝手に作っちゃいました。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると教育の語源は、
「もともと英語のeducationやフランス語のeducationは、ラテン語のducere(導く)に
由来することから、教育とは人の持つ諸能力が引き出されるよう導くことであるとする
定義がある」そうです。

導いてあげる伝道師的な人、また、ファシリテー的な人はもちろん必要であると思います。
それを否定する気はありません。むしろ、非常に大事な役割であると思います。
自分の才能を開花させるには、自信を持たせ、自らの「気づき」を発見させるように
しむけなければなりません。

ただ、一度「気づけ」ば、そこから先は、自分の努力や信念でしか追及はできません。
今の自分をより成長させ、自己を完結できるのは、自分だけなのです。
自ら考えて育ち、前進し、自分を高めていくことは、本当に美しい姿だと思います。

  • Comments (Close): 0
  • Trackbacks (Close): 0

■No.049 : 私訳 『 空 (くう)』 (2008/11/20)

以前に、爆笑問題の「ニッポンの教養」というNHKの番組をたまたま見た時、本当に面白いことを言っていました。

その日は、分子生物学の福岡伸一氏がゲストでした。

シェーンハイマーという物理学者がねずみの実験で発見したのは、「食べたものがどのようになるのか・・・」ということです。 消化された食べ物の半分は、もちろん自動車のガソリンのようにエネルギーに代わり、体の活動のために消費されます。
一方残りの半分は、分子レベルまで分解され、ねずみの体全体に行き渡り、
脳や心臓や骨や尻尾の分子と入れ替わるということを発見したのです。
それは人間も同様で、食べたものは自分の体の分子と入れ替わるというのです。

人の体の「細胞」は生まれては死んでいき、また新たに生まれ・・・・
そのように代謝を繰り返し、体全体で80年もの生命を維持する仕組みを
整えているのだそうです。 細胞のさらに小さな分子レベルでも同じことが起こっており、
入替えを細かにおこない、 自らの細胞や生命を維持しているのだそうです。

それってすごいなーと思います。分子が入れ替わるのであれば、私の体はとってもグローバルです。
私の体を構成していたものは「ロシアのサーモン」だったり「中国の豚や鶏」であったり、
「アフリカのコーヒー」だったり「フランスのブドウ(ワイン)」だったりするわけですから。

分子レベルであれば呼吸でも体に入りますので、私の体の一部は雲だったりすることになります。
もちろん、その逆も・・・私の体の一部は、明日は魚の一部や微生物になったり、呼吸をすれば、会社の誰かの一部になったりもしているのでしょう。
地球上の全ての生命体や物質は繋がっているということです。

つまり、地球(宇宙?)にある物質は、何十億年もの間、全ての生物や無生物間で、出入りを繰り返してきているのです。
本来、分子や原子のレベルでは、その数は増減しないそうです。
増えも減りもしない分子が、地球上の生物、無生物の均衡を保ってきているのです。すごい真理です。

上記の福岡伸一氏の本にも分子の数が増えも減りもしないで均衡を保ってきていることの話しは出ていました。
「増えも減りもしない、目に見えない物質」が私達の体を何度も入ったり出たりして、 生命を維持しているのです。
しかも宇宙全体に広がり、時間・空間を問わず、繋がっている・・・・
これはちょっと聞いたことがある・・・

少し話が飛ぶように感じるかもしれませんが、般若心経に出てくる「空=くう」とはまさに、
数十億年の間、生き物や無生物全ての中に入れ替り立ち替わり入り、
生命を司る分子や原子のことを指しているのであると私は思うのです。
こんな解釈をすると、仏教学者さんやお寺さんに怒られるかもしれませんが、私はそう感じています。

ちょっと般若心経の一部を掲載させて頂きます。

舎利士、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是、
舎利士、是諸法空相、不生不滅不垢不浄、不増不減、是故空中、無色無受想行識・・・

これを三笠書房からでている「心に響く般若心経」の訳にしてみますと・・。

舎利弗(お釈迦様のお弟子さん)よ、形あるものは全て「空」であり、
「空」がもろもろの形あるものとなっていて、感覚も、思いも、分別も、認識もこれと同じである。
舎利弗よ、この世のものは、一切のものの真実の相(すがた)は、みな「空」であって、
生じることも無く、無くなることも無く、汚れもせず、浄らかにもならず、減りもせず、増えもしない。・・・・

とありますが、この空の意味が分からない。
でも空を分子(もしくは、もっと小さい構成のもの) と変えて表現をしてみますと・・・・

舎利弗(お釈迦様のお弟子さん)よ、形あるものは全て「分子」からできていて、
「分子」がもろもろの形あるものとなっていて、感覚も、思いも、分別も、認識も
すべて同じように分子からできた体から生まれている。
舎利弗よ、この世のものは、一切のものの真実の相(すがた=相対=均衡)は、
みな分子からできていて、生じることも無く、無くなることも無く、
汚れもせず、浄らかにもならず、減りもせず、増えもしない。・・・・

となるような気がします。
私には分からないのですが、たぶん分子よりももっと小さい物質の根本を指していると思うのですが・・・・

目に見えない小さな小さな物質で、地球や宇宙空間の生命体や物資の全てを行き交い、
均衡を保ち、時には人の生命を司ることをしているもの・・
それが「空」。この自分の一部は全て宇宙と繋がっている。
地球の環境が壊れているのは、自分の体が壊れているのも一緒・・・
均衡が壊れていることを指しているのだと思います。
しかし、増えも減りもしないのですから、必ず、改善の道は残されている。
・・・と思う・・・この全体が空のような気がします。

仏教書には、たくさんこのような真理に近いことがたくさん書いてあり、アインシュタインの相対性理論と比較したりします。
どちらかというと、科学書です。2500年前のお釈迦様がどうして、このようなことを知ったのかは、本当に分かりませんが、
壮大な宇宙の真理を説いているのが、とっても面白いです。

  • Comments (Close): 0
  • Trackbacks (Close): 0

■No.048 :暴力は、悪いものでもない (2008/10/14)

「高校野球の甲子園大会で歴代2位の春夏通算56勝を挙げた智弁和歌山の高嶋仁監督(62)が、部員に暴力をふるったとして学校から謹慎処分を受けていたことがわかった。

同日付で退任し、鈴木幸雄コーチ(76)が新監督として指揮する。大阪市内で開かれた日本高校野球連盟の審議委員会で報告された。」(毎日新聞 2008年9月10日)

私は早稲田大学に入学して、迷わず野球部に入りました。
一年生の時に、先輩に逆らったことがきっかけで、先輩にボコボコに殴られたことがあります。
ただ、私は上級生になって後輩を殴ったことは一度もありません。
だからこそ言えますが、暴力は悪いものではありません。

大学時代は、「集合」という「しきたり」が残っていました。
「集合」というのは、先輩が後輩を集めて正座をさせ、お説教をすることです。
ある時はウサギ跳びをさせられたり、ボコボコに殴られたりもしました。
主に「集合」する理由とは、「守備練習の時にボールがイレギュラーした⇒
グランド整備ができていない⇒一年生が悪い」という事でした。
守備練習で、ノックをしている時に「後輩いじめ」が得意?な先輩のところのゴロが
イレギュラー(不規則なバウンド)しようものなら、一年生はみんなで目をつむりました。

「今日も集合か・・・・」
「集合」は、練習後、一年生が明日のためのグラウンド整備をしている時に声がかかる。
日が暮れて暗くなったグラウンドで、係りの一年生が「一年生集合です!」とグランド全体に響き渡る大声で呼ぶ。
すると一年生が「はい!!」と地響きがなるくらいの大声で、暗闇の中から一斉に呼応する。
そしてグラウンドのあちらこちらから更衣室を目がけて全力疾走で走りこみ、室内に滑り込むように入り正座をして位置に着く。
正座も普通の正座ではなく、誰が考えたのか「正座の格好から頭だけを深く下げ、地面すれすれのところで止める」という…

とにかく、その格好でいると膝の痛みが倍増し、土と埃の匂いを直に感じる。
その状態で、「生意気だ!」と無意味に殴られ、重く鈍い音を立てて倒れる。
時折、殴られた者が「う・・」と潜めた声を漏らす。
しかし、下を向いているので周りは見えない。ちょっと異常で怖い状況だ。

その日も、三年生に「集合」をして頂いている時で、一年生は「はい!」の返事しかできない状況。ただその日、先輩は不満げな私の横顔を見て取ったのか、なにやら質問をしてきた。
どのような質問をされたのかは覚えていないが、「分かったか?山内!」と言ってきた。
こんな時は「はい!」と腹いっぱいの声で返事をして、殴られるのを回避するのが当然。
質問の内容などはどうでもいいのだ。
しかしながら、私が言ったのは「分かりません!」の一言だった。
「なに~?」 唖然とする先輩。私は続けて「こんなことをして、優勝できるのですか?」と言った。
当時の早稲田は、優勝から遠のいていて久しい状態だった。そのことを指していた。
あまりにも唐突な逆質問?に、先輩は押し黙った。その後、その先輩は、私にいくつかの質問をしたが、私は、全て「はい」意外の言葉で返した。その様子にあっけに取られたのか、その日は、早々と開放された。

しかしながら、次の日は、地獄だった。

その先輩は「一年生がこんなことを言った」と寮で話をしていたのだ。
そんな一年生の「集合で逆らった話」を聞いた日には、先輩方々は黙っちゃいない!
私は、全ての先輩を敵に回すことになった。
台風がきていて、朝から外はどしゃぶりの大雨だった。
しかしながら、部員全員が連絡網で集められた。
寮には、30人ほどが入れる講堂があったのだが、そこでも嵐が吹いた。
4年生が3年生、2年生、1年生を次々に「集合」。
続いて各学年総当りの「大集合」となった…。

当時二年生だった先輩が、その時を振り返って
「俺は、一年の時の集合より、とにかく、二年の時の山内事件のほうが、最大だった。
正座をしていて、あまりにも苦しくて、何度も気を失いかけた。
このまま気を失ったほうが楽になるんじゃないか?と思ったほどだった・・」
と言うぐらいだから、その物凄さが分かっていただけると思います。
私はというと、とにかく、正座をしている時間が無いくらい殴られていたので、
正座がどれくらい大変だったのか良くわからない(笑)・・・

この話は卒業して20年も経つ今でも、どんなに一緒に飲んでも、私の前で話題にする人は同期でもほとんどいません。みんな私に気を遣っている様です。
ただ、私の友人で他大学の慶応、明治、法政の野球部員から「お前何かやったんだって?」と
聞かれたほどだったので、私のいないところでは、結構な酒の肴にはなっていたようです(笑)

そのような事件を起こしても、私は野球部を辞めませんでした。
次の日練習が休みで、同期の一年生の数人が、「プールに行こう」と誘ってくれました。
「肌を焼いたほうが殴られたアザが目立たないよ」と笑いながら。
その一日は、私にとって大きな救いでした。

私に「辞めろよ。お前」と言った先輩も確かに数人いましたが、大多数はスッキリしてくれていて、飲みに誘ってくれる先輩のほうが多くいました。
私が辞めなかったのは周りの仲間や先輩に支えられたのが第一義ですが、
もう一つは私には信念があったからだと思っています。
今でも一年生を虐めても優勝できるとは思えません。

ただ、本当に先輩の方々に悪いことをしたとも思っています。
「俺だって、こんなことをして優勝できるとは思ってねーよ」と言いながら
私を殴っている先輩の姿や声を覚えています。
みんな野球に真剣だった。早稲田の野球部としても真剣だった。
殴られながら本当に悪いことをしたと感じていました。

私は、暴力が全て悪いとはまったく思いません。意図を理解せずに、
暴力の全てを「悪」として決めつける人間の方がはるかに暴力的であると思います。
なんでそんなことになったのでしょう?私は、暴力を振るわれても誰も恨んでいませんし、
身体的な問題もありません。ひねくれた人間になった覚えもありません。
私は教育の現場に愛ある暴力に早く復帰して欲しいと思います。

  • Comments (Close): 0
  • Trackbacks (Close): 0

■No.047 :土下座(不思議な感情) (2008/09/18)

人生で3度ほど土下座をしたことがあります。 1度目は、大手スーパーの開店の交通誘導警備をしている時でした。
この時、大手スーパーの警備の受注は始めてでした。
確か私は29歳でもう少しやせていた(笑)
開店時の駐車場付近は数キロの渋滞で、ドライバーの目は三角になっています。
また当然、初めて自動車でのご来店ですから、駐車場の入口もよく分かりません。
そのような状況の中、誤って出口から臨時の駐車場に入ろうとした逆走行の自動車が
ありました。

警備員はまさか出口から自動車が入場してくるとは思っていなかったので
完全に背を向けて交通整理をしていたところ、
いきなり後方から自動車が突っ込んできたので、びっくりして止めようとし、
勢いよくフロントガラスを叩いてしまったのです。
叩かれた自動車には、ご夫妻でしょうか・・・中年の男性と女性が乗っていて、
先ず勢い良く女性が自動車から飛び降り、烈火のごとく怒って喚き散らしました。
「なんで、いきなり、フロントを叩くの? 責任者を呼びなさい!」
「本部に連絡してやる!」 自分で逆走行をしていたことには、
まだまったく気付いていない様でした。
私はその時、近くにいたので直ぐに飛んで行き謝りましたが、
まったく許す気配はありません。
そしてさらに、「こんな怖い思いはしたことは無い!
土下座をして謝りなさい!」と言われ、
私は躊躇無く土下座をして謝りました。
旦那さんは、どうやら逆走行していたことを自分で理解したらしく、
奥さんに「行こう」と冷静に促し、そのまま自動車に乗って
出て行きました。
私はその時、逆走行の説明は特にしませんでした。
何か、火に油を注ぐような気がしたので・・

あとの2度の土下座は、万引き捕捉の誤認です。
警備員が、万引き犯だと思って捕まえたら、
まったくそのようなことをしていない人だったということです。
間違えられた人は、1度目は20歳代の男性、2度目は男子高校生で、
両者ともご両親が出てきて、
「うちの子供がドロボウ扱いされた!」「土下座をしろ!」と言われました。
私は玄関先で土下座をしました。当時私は、おそらく33歳くらいだったと思います。
「土下座をしろ!」というのは、経験上、意外に女性が多いですね・・・(笑)

良く考えてみると、自分の失敗というより、人の失敗の責任を取る形で土下座をしてきました。
土下座をすることは屈辱的と言われていますが、私は当時、正直に申し上げて、あまり恥ずかしくはありませんでした。
もちろん、本当に申し訳ないという気持ちからの謝罪でもありますが、
何よりも、スーパーの取引先から仕事を失うことのほうが怖かった…とにかく必死でした。

それなのに、矛盾する感情がありました。
誤認対応で土下座をして許してもらい、それを取引先のデパートに報告をしに行った時でした。
デパートの若い担当者に「それで、許してもらったんですね?ごまかしてもダメですよ」と
良くわからないことを言われました。
さらにデパート特有の「下請け扱い」を受け、クドクドと偉そうに話をされた上、最後には
「それで、誤認をした人は、クビにするんですよね?当社ならそんな社員はクビにしますよー。」
と言われました。
私は、つい、カッとなって反論をしました。
「クビにするかの判断は私がします。私は、あなたではありませんし、あなたの会社でもありませんから。」と言ってしまった。・・・・・結局、私は、反省の足りないバカ社長とされ、
その会社とは取引中止となってしまいました・・・・笑。
何のために、土下座までしたのだろうと思うと「本当にバカ社長だな」と
自分でも思いましたが、 何かスッキリした気分になったことを覚えています。

人間、感情が先に立ってしまうものですね。

  • Comments (Close): 0
  • Trackbacks (Close): 0

■No.046 : 善悪の区別(ウソも方便) (2008/09/04)

善悪の区別をするということは、本当に難しいことです。

そもそも善悪とは、人が存在する上で創り上げられた概念のはずです。
人が集団で生きるためには当然ルールが必要ですが、最近のコンプライアンス社会においては必要以上に法遵守を押し付ける傾向にあり、企業や社会、さらには学校の生徒にまで強要しているのは如何なものかと思います。

企業のルールは人に自信を失わせることがあります。
私が大手のコンピュータメーカーを辞める頃、ちょうどバブルの絶頂期で、会社を辞めることが大罪をおかすような言われ方をしました。上司にしてみれば、部下が辞めると会社の評価が下がるようで、私は意味無く慰留され、辞めるのに半年間かかりました。
しかしながら、その後数年経つと不況になり、状況は一変しました。
コストを優先し人を辞めさせ、その結果利益が生じると、会社が辞めさせた人を評価をするという風潮に変わってしまったようです。私を慰留した上司は、状況が変わった後、どうやって人を辞めさせたのであろうかと考えてしまいました。
人事は非常に大切なものなのに、まったく矛盾した対応に理念や哲学の欠片もない話であると思います。
矛盾を感じることによって、人は自信を失ないます。

さて、「嘘も方便」という言葉があります。
方便とは元々、仏教用語で「真実(真理)に人を導く巧みな手段」として使われています。
仏教の知恵は、宇宙の真理を説くもので、難解で理解しがたいものです。
それを分かりやすくするために、「方便」というものを活用して良い方向に導こうとしていました。「悪いことをすると地獄に落ちるよ」「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるよ」というようなお話や迷信といわれるものは、「方便」だったのかもしれません。
目的を達成させるために、「例え話」は時として有用な手法です。特に子供には、効果的だと思います。しかしながら、今のコンプライアンス社会は、このような「例え話」すらも否定してしまうように感じられ、柔軟さがありません。
善悪を法律的な判断だけで白黒つける社会は、本当に危険だと思うのです。
善悪を人の倫理を中心に考えられるのであれば良いのですが、社会ルールの変化によってルールも変更されるのであれば、なかなか善悪の区別すらつかなくなります。

前回のサブロー通信でご案内しましたが、60歳以上の人の万引き率がこの10年で3倍にも増えているのは、高齢者が善悪の区別がつきにくくなっている表れであると感じています。
これは社会のルールが、人や人の生き方を中心に創るのではなく、税金の流れを中心とした経済合理性を中心に作られているからであると思います。
これでは、「嘘も方便」は通用しません。

今の社会の善悪の定義は、経済合理性を前提に、「人に損害を与えた人は悪」という風潮なのではないでしょうか?
善悪の区分が人の道の話ではないのです。

ルールは、人が生まれて作ったものです。
それは、人が集団で幸せに生きるために必要なもので、経済合理性を優先し創り上げられるものではないと思っています。

  • Comments (Close): 0
  • Trackbacks (Close): 0

■No.045 : 悲しい万引き (2008/07/28)

サブロー通信では、あまり仕事のことや時事ネタは書いてこなかったのですが、万引きの実体で分かって頂きたいことがあり、文章を作らせて頂きました。

警察庁の調べによりますと、下記の表の通りです。
世代別に統計を見てみますと、驚くことに気がつきます。
検挙総数はほぼ横ばいの10万件で、万引きの総数はあまり変わりません。
しかしながらその中身は大きく変わっています。
19歳未満の数は、平成10年から約半分に減ってきているにもかかわらず、65歳以上の万引きの検挙数は、実に3倍になっています。これは、いったいどういうことなのでしょうか?

万引きの認知件数・検挙状況(警察庁資料)

万引きの認知件数・検挙状況(警察庁資料)

グラフ

万引きの年齢別検挙人員(警察庁資料)

グラフ

ア メリカのFMI(Food Marketing Institute)の2003年の資料によると130,201人の万引き捕捉者のうち未成年が全体の27%を占めていましたが、これは、平成19年の日 本のデータとまったく同じで、27%が未成年者です。なんとアメリカと同じ比率!
日本の万引きは、リサイクルショップの台頭により大きく変わりました。
自分の楽しみのために商品を盗むのではなく、転売を目的とするようになりました。
一昔前の未成年者が「スリルを味わうため」におこなうものではなく、すでにアメリカのように「金銭目的」の犯罪、または「貧しさ上」の犯罪という悲しい現実に変わってきているのではないかと思います。
今までの日本の常識の「子供の犯罪・世代別の犯罪」ではなく「貧富の差による犯罪」「年齢に関係ないもの」に変わってきていると言う現れでしょう。
もちろん、65歳以上の犯罪は、転売を目的とするのではなく、「貧しさのための犯罪」と予想できます。
65歳以上とは、私の母の世代であり、もし仮に、私の母が、生活のために万引きをしているとしたら、本当に悲しい現実だと思うのです。
このような短期間で、未成年の万引きが半減し、65歳以上の万引きが3倍になるなど誰が予想できたでしょうか? 社会の歪みを映し出す、代表的な統計だと思います。

私は、年金問題とかの話を聴く度に、チャールズ・チャップリンの映画「独裁者」の最後の6分間の大演説の部分を思い出します。
独裁者のヒンケル総統(アドルフ・ヒトラーの暗示)に間違われた小市民の床屋の主人が数万の兵士の前で突然に堂々とした演説をするのですが、その中の言葉 に「若者に夢を、老人に安心を」(訳がいくつかあると思いますが、青年に希望を与え、老人に保障を与えようと言うものでした)と言う部分があります。
1940年に作られたこの映画の言葉の本質は、21世紀を生きる私達にもまだまだ、必要な言葉であると残念ながら感じてしまいます。

  • Comments (Close): 0
  • Trackbacks (Close): 0

■No.044 : 一道は万芸に通じる (2007/07/10)

一道は万芸に通じるとか、一芸は道に通じるとかの話があります。

一 つのことを極めた人は、他のどんな分野でも抜きん出る事ができるこということですが、これは、猿楽(現在の能)で大成した世阿弥が書き残した「花伝書」 に、「一芸は万芸に通じる」という話からとお聴きします(すみません。実は流れをよく知りません)また、一道は万芸に通じるとは、宮本武蔵の五輪の書から のお話であるとお聴きしております。
多くの人が知っているこの言葉の意味が、実は私はよく理解できませんでした。
今では諺ということで処理されてしまっていて、ことざわ辞典にも出てくるのですが、どうも納得できませんでした。

例えば、将棋の世界ですごい実力のある人が、野球で一流になれるかと言われるとそうではないような気がします。
サッカー選手が、野球をやらせてうまくなるようなことは同じスポーツですからあるような気がしますが、実際には野球だけに絞っても、バッターを極めた人が、ピッチャーでも成功すると言う確率は非常に少ないと思います。
高校野球レベルの話であればあるかもしれませんが、「道を極めたプロ」になれば、なかなかいません。
一流の人が全てのことに通用することを伝えたかったのではないように思います。

宮本武蔵の五輪書には、「兵法の道理(自分が永年に亘り、朝夕鍛錬して会得した武士の兵法)にしたがって様々な芸術・技能の道(修行法)としてきたので、万事にわたって私に師匠はない(五輪書・草思社)」と書かれています。
文章を読んでも、仏法の道や大工の道などの道理から、兵法を学べることが多々あることが書かれています。

本当に純粋に勝つこと、人を殺すことの法について書かれているこの書は、勝つために全ての営みを師としているものです。
一つの道を極めたものが全てに通用すると言うことではなく、純粋に自分の道のために、多くのことを学ぶことを奨励していることと思えます。
その内容として五輪書に、
「わが兵法を学ぼうと思う人は、修行の法(決まり・規則)がある」
として、下記の9つの決まりを案内しています。

第一に、 邪(よこしま)でないことを思うこと(願うこと)
第二に、 兵法の鍛錬に励むこと
第三に、 もろもろの芸(武芸、芸能)を学ぶこと
第四に、 さまざまな職能の道を知ること
第五に、 ものごとの利害・得失をわきまえること
第六に、 あらゆることについての鑑識力を身につけること
第七に、 目に見えないところを洞察すること
第八に、 わずかな事にも注意すること
第九に、 役にも立たないことをしないこと

剣の鍛錬のことはもちろん書かれていますが、人を切り殺し純粋に勝つことだけを目的とするために、社会や自然の摂理、農業や商い仕方、道具の使い方などまで幅広く学び、本質を見極め、自分の血肉にすることを勧めているのです。

「一芸は道に通じる」と言うのは、自分の道を真剣に追求し、「人生を修行」と感じている人が、見る、聞く、感じるといった全ての五感を、自分の「道」に生かすことがであり、それができれば他の道理も自ずと分かるということではないでしょうか?

転職が多く、職人やプロと言うわれる人が少ない時代においては、ちょっと分かりづらい解釈かもしれません。

  • Comments (Close): 0
  • Trackbacks (Close): 0

■No.043 : バランス (2007/01/03)

人に迷惑をかけてしまうような環境があると、なかなか偉そうな文章は書けないものです。

私も最近、どうも人に迷惑をかける機会が増えてしまい文章が書けずにいました。
また、元気にサブロー通信を送っていきたいと思います。

もうかなり前の話ですが、日本の柳沢厚相の「女性は生む機械」発言の後は、赤ちゃんポストなるものが日本にも出てきたらしい。
子供の出生率や内容は、確かにこれから政治においても大きな問題になるでしょう。
P.F.ドラッカーの「明日を支配するもの」の中で、先進諸国の出生率の低さはどの国でも問題とされていますが、日本の出生率の低さは異常で、人口を維持 できないと言われる数字の2.1を下回り、現在1.3(今は1.26以下のようです)以下まで下がっていることを記述したうえで、下記のように話していま す。
「つまるところ日本とヨーロッパ、特にポルトガル、スペイン、フランス南部、イタリア、ギリシャなどの南欧諸国は、21世紀末には集団自殺同様の様相を呈する」
そして先進諸国では、少子化、高年齢化等の「人口構造を巡る諸々の問題が政治の中心となる」
と、予測しています。

山内の持論で不謹慎かもしれませんが、出生率と社会構造を組み合わせなければならないことが、そもそも違うように感じています。
もちろん、出生率が下がることは日本を支えられなくなってしまいますから、知的な生産性を高くしなければ、国を支えることができず、さらに国際的な活躍をして、海外からの「外貨」を稼がなければならないことも自明の理であると思います。

ただ、市場経済と種を残すことは、まったく関係の無いことであると思うのです。
市場の経済と子供の数を結びつけて考えているのは人間だけです。
他の生物は本能的に種を残します。
生まれてくる種は、卵であったり赤ちゃんであったり様々ですが、生まれてくる数や雌雄比はその種のバランスによって決まると思うのです。
働き蜂と女王蜂の生まれてくる数には数万の差があると聞いていますが、それには生き残るバランスという理由があると思うのです。
一般的に強い種は、数が少なくなるはずです。
ライオンの数がやたらに多かったら、あっという間にサバンナのバランスが崩れるのは子供でも分かります。
そこには不思議なくらいのバランスがあるはずです。
先進諸国の人間の数がこのまま増えたら、地球環境そのもののバランスが悪くなり、崩壊してしまうのではないでしょうか?

現代の社会が悪いから、社会環境が悪いから子供を育てることが出来ないというのは嘘です。
出生率が下がっているのは理由があると思います。
市場経済の理由ではありません。自然のバランスの領域です。
市場経済は、労働として人の数を増やすために生むことを奨励するのではなく、生産性を上げる工夫を奨励すべきです。
このバランスの変化に対応すべきなのです。

先進諸国は、人間を労働力として期待するのではなく、違った変化を期待しなければならないのであると思います。

  • Comments (Close): 0
  • Trackbacks (Close): 0

■No.042 : 一休さん (2007/01/03)

室町時代を生きた一休さんのお話をまとめた「一休咄」の巻一に、一休という名の「いわれ」を聞かれて一休さんが「とくに深い心もないが、お話ししましょう」と道歌を詠んだおはなしがあります。

有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へかえる 一休
雨降らば降れ 風吹かば吹け

「漏(ろ)」というのは、「煩悩」を表しているのだそうです。
「煩悩の有る路」つまり「有漏路」とは煩悩だらけの娑婆世界(今の世界)を指していて、「無漏路」とは煩悩の無い悟りを開いた人の世界だそうです。

私が説明するには、力不足なのですが、仏教の考え方にご存知の通り「輪廻」という死んだ後もまた新しく体を持てるという考えがあります。
「あなたの前世は○○」みたいなことを、テレビ番組でズバリ言い当てる(決めつける?)人がいますが、この考えは人間が都合良く解釈したもので、仏教としての考え方では、人間に生まれ変われるかどうかは分からず、全ての生物が生まれ変わりの対象なのだそうです。
人間に生まれ変われる確率は、「優曇華(うどんげ)の花の如し」といわれるそうです。
仏教的には優曇華とは、3000年に1回しか咲かない花らしい。
・・・ということは、人としての生を受けた私は、紀元前の人がようやく人として生まれ変われた姿なのかな?ということになります。
私などは次の世はゴキブリくらいかもしれませんね(笑)

すこし前に「21g」という映画がありましたよね。
死んだ瞬間に人間は21g軽くなるということを題材に、3人の複雑な人間模様を描くものです。
21gとは魂の重さなのだそうです。
科学的には水分が蒸発したからだとか 、血中酸素が抜けたからだとか色々言われていますが、芥川賞をとられている僧侶の玄侑宗久さんの著書「まわりみち極楽論」の中で、「私が調べた範囲では、数グラムから最高40グラムまでありましたね。」と綴っています。
アメリカでも魂の重さを量る試みをされているそうですから、頭ごなしに否定することは出来ないのかもしれません。

上記の歌を玄侑宗久さんの同書で、「この歌は、「無漏路」の世界(あちら側の世界)を確信した人の言葉」として捉え、下記の通り解説しています。
「人生は、もといた「無漏路」の世界に帰るまでの一休みのようなものじゃないか、と一休さんは言うわけです。
だからまあ苦しいことがあったとしても知れたものなんだし、せいぜい雨も降り、風も吹くがよかろう。はっはっはっ。てなもんでしょうか 本当に自信あふれる歌ですね。」

と、訳を紹介しています。

私は、10年以上お金に苦労してきましたが、それはそれで楽しいこともありました。
苦労はありましたが、笑いの無い10年でもない。
もしかしたら、借金の無い人より楽しかったかもしれない。
これからもお金のことでは頭を下げることが多くあるのでしょうが、それは「雨降らば降れ、風吹かば吹け」という気持ちで超えていきたいと思います。

参考文献:まわりみち極楽論(朝日新聞社)、一休(祥伝社)

  • Comments (Close): 0
  • Trackbacks (Close): 0

■No.041 : 人と教育 (2006/09/07)

先日、お仕事関係の人と飲む機会があったのですが、その時のお話をさせていただきます。

その方はイスラエルの商品等を輸入したりしているのですが、現地で初めて商談をした時、商談自体は平行線を辿っていたものの、人間的には気に入ってもらえたらしく、ビジネス抜きの夕食に誘われたそうです。
食事に舌鼓を打ちつつ談笑をしていると、
「日本人、お前はなぜ生まれてきた?」
「お前はなぜ、日本に生まれた?」
「なぜ、この時代に生まれた?」

と、質問を投げかけられたそうです。

その人は当時50歳を超えていたのですが、それだけの人生経験を持っていても、その質問に答えることは出来なかったそうです。
私も異国で突然、取引をしたい人からこんな質問をされたら…。
たぶん何も答えられないと思います。

宗教的なことは私はまったく分かりません。
ただ、世界から見て非常に平和な時代のこの日本に、何かの縁や運命によって生まれ、生かされているのであれば、これは本当に感謝すべきことであると思います。

また、もしこの時代に生まれてきた理由があるのであれば、少なくとも人間だけが必要としている市場経済の上に成り立つことではないと思うのです。

少し話がそれますが、昔(というと変ですが、30年ほど前)は、大人も子供も本当に純粋だったように感じます。
親は子供に「立派な人になれ」ということを話しました。
非常に概念的なことですが、それで十分にお互いがイメージできました。
私は今の子供の教育には欺瞞さを感じます。そう感じた一例をご案内します。
先日、小学校の授業参観に行きました。
教室の後ろの壁には、子供たちの辿々しい文字で、自己紹介の文章が貼られていました。
「誕生日」や「趣味」が書かれている中に「大事なもの」という欄があり、そこに「家族」と書かれているものを本当に多く散見しました。
大事なものが家族??
幼い子供が、本当に素直にそのようなことを書いているのでしょうか?

もしこれが30年前の子供なら、野球のグラブとか、お人形とか、「物」を書いていたのではないかと思います。
大事なものに「家族」とか「お母さん」などと書く子供がいたら、周りの大人は「何か特別な不幸を経験している子」とか「かわいそうな境遇の子」を想像するに違いありません。
ただ、今の時代は「家族」と書くと、教師や父母が安心するようになってきているようです。

昔の親父や母親が言っていた「立派な人になれ」というのは、家族や身近な人を守るためのものではなく、もっと大義を持って、社会性あることを実行することを指していた思います。
家族を大事にしろ…確かに大事ですし、無理に壊す必要もありませんが、そんなことを大事と言い切ってしまう子供の風潮を、私はちょっと怖く感じます。
親が言うのはまだ良いですが…。

子供にはもっと大海を目指す夢を与えることが必要なのではないかと思います。
子供が大きな志を持つことで、親はその志のために多くの犠牲を強いられるかもしれません。
大事にされるどころか、利用され、踏み台にされることもあります。
しかし、身近な人に迷惑をかけてでも夢や大義を全うし、社会に貢献できることができれば、その社会を通じて、親は満足をしていくものだったのではないでしょうか?

「なぜ生まれてきたのか?」

ハッキリとは分かりませんが、この質問に対する答えは「立派な人になれ」という、純粋な思いを持つ親子関係の中にあるのではないかと感じています。

  • Comments (Close): 0
  • Trackbacks (Close): 0

ホーム > バックナンバーNO.41~NO.50

Return to page top