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バックナンバーNO.71~NO.80 Archive

No.77 「新年のご挨拶」(2011.01.01)

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No.76 「正見 ということ」 (2010.12.15)

正見とは、仏教の用語で「しょうけん」と読みます。字のごとく物事の本質を正しく見ることを
指します。これが深い!本当に難しい。

正見は八正道(はっしょうどう)というお釈迦さまが最初の説法において説いたとされてます。
涅槃(成仏の姿)に至る修行の基本を8つに分けて説明しているものです。

正見(真実を見る。真理を悟り、掴む。これを八正道の基本としていると思う)、正思惟(正
しい考え方=仏法としての考え方で、欲を捨て、苦を知る考え方)正語(正しい言葉。言葉
を正しい意味として表現することだと思います)、正業(業が深いよねぇーあの人は・・・の
業でしょう。欲に執着した行動正思惟の欲を捨てるの考え方を実践する行動)正命(命は生
活というか、こころの持ち方を表現しているのかな?・・正業が行動に対して、正命は、自
然の流れの調和を意味するような感じであると思う)正精進(これは、正しい精進、修行をす
ること・・・)正念(難しいけれども心というものを少し物理的に捉えているのであると思いま
す。心は見えないけど、人の目には捉えられない物質である=空気みたいなもの・・として
表現してるのではと思う。性根が曲がっているとか性根を鍛えるとか・・字が違いますが、心
を表現している。そのような正しい心で自分の身体をコントロールすること)正定(正しい心を
安定させる事…だと思う)

正思惟(頭)、正語(口、耳)、正業(行動、体)とここまでがどちらかというと基本的な身
体の機能や機能により「感じる」部分を表現しているように思います。自分の身体で苦を感じ
る部分であり、自分の頭で考え、体を行動に移す部分。
当然仏教では、いわば娑婆(しゃば。今の我々の世界)で、良いおこないすることを勧めて
います。もしくは、そのような事を実践している人を指しています。(…と思う)そして、その
実践をしている人(良い考えを持ち、良い言葉で良いおこないをしている人)は、生活も自然
と調和していくもの(正命)で、少しづつ悟りを開いていきます。そのような人が正しい精進
(正精進)を実践すると、正念という素晴らしい心が芽生えてくる。
本来、人が自分の身体に縛られている限り、仏教でいう、生病老死の苦からは逃れられない。
しかし、人には心がある。動物にも心があるとは思いますが、人ほど複雑ではないでしょう。
魚や昆虫、鳥などは、本能的な機能に操られているようにしか見えません。
何か、特別な意思があって動いているとは思いづらい。それが、象やライオンになっても、
基本は本能的な自分自身の身体の機能にコントロールされているにすぎないと思います。
しかし、人間は、心の働きが中心とすべきである。正思惟のいう欲(食欲、物欲、性欲等)
は、身体を持っているから生まれるもので、身体にコントロールされている限り、正思惟の考
えには遠い存在となります。つまり、動物的であるこということ(笑)
動物的に本能にコントロールされるのではなく、自分の心で身体をコントロールすることで、心
を育てていきます。それが正念(心)であると思います。その正念を維持することが、やっと
正見に繋がるのではないかと思います。
 
正しい考えを持って(正思惟)、言動を慎むと(正語)、正しい行動ができるにようになる
(正業)。それを実践していくと、ごく普通に、自然と生活し調和できるようになる(正命)。そ
れは、野生的に自分の身体に心がコントロールされるのではなく、人として心を中心に身体を
コントロールしていることとなる(正念)それが常に安定して継続できる(正定)ようになるとと
やっと「正見」=「正しく物が見れるようになり、涅槃に近づく」と言うことになるそうです。
 
遠いぞ正見。デブな私は食欲(身体の欲求に)に心が負けており、なかなか心を育てること
ができないようです。

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No.75 「明日が見える」 (2010.11.24)

 『今の姿を見れば、過去どのような事をしてきたのか分かる。
  今の姿を見れば、将来どのように成るのか分かる。』

 御釈迦様のお言葉だそうです。私が耳から聞いたものなので、たぶん文章
 的な表現は違います。文章は、正確には良くわかりません。
 申し訳ありません。ただ、意味はこのような物でした。
 
 今の自分は、自分自身が行動したことが原因で造り上げられている。
 今の自分の姿や状況の結果は、全て自分が何をしてきたかの連続に過ぎない。
 だから、今の自分は もちろんの事、将来の自分も今の自分が何をするかで、
 同じような結果になっていく。

 厳しいお言葉です。身にしみます。今の結果は全て自分の行動によるものです。
 
 私は反省しなければなりません。
 私は見栄っ張りで、自分の実力以上の事を多く望みすぎていることがあります。

 夢は大事です。ただ、夢は、今の現実ではありません。将来、実を結ぶものです。
 焦りすぎて、今の自分の器以上の事をするのではなく、自分の実力をしっかりと
 考え、ぶつけることが大事です。 
 
 今は小さなズレかもしれませんが、放置をしておけば、そのズレがどんどん
 大きなズレに変わっていく。確かに当たり前の話なのだろうと思います。

 人生を踏み外すのは、自分の小さなをズレを修正できない自分の行動から
 生まれるのでしょう。

 御釈迦様のお話は、生前に何をしてきているかも今に影響を受けると言うこと
 表現していますが、生前の因果の話は難しいので、先ずは、今の自分だけを
 見つめたいと思います
 
 先ず、自分のできることに全力を尽くしたいなと思う今日この頃です。

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No.74 「閻魔大王とお地蔵さん」 (2010.10.28)

日本には、八百万の神がいるとされいます。
色々な学説のようなものがありますが、本当に面白い文化だと思います。

八百万の神とは一体何かと突き詰めると、全ての「物体」には神が宿るということ
になります。
山や川、木や畑、また、人が永いこと活用した道具にすらも神が宿るとされたいました
道具の場合、人が永く使えば使うほど神が宿るとされ、その道具の神を九十九神
(つくもがみ)と言われています。
九十九年という永い年月を使った道具には、魂がこもり、馬鹿にした使い方をすると
祟りがあるとされています。
 日本人であれば、なんとなくわかるような気がしませんか。私は、子供の頃から
野球をしていましたが、守備でエラーをすると「グローブを大事にしないからかな」などと
思った事もありました。スポーツで使うクラブや道具、また、音楽に携わる人の楽器等は
同じような感覚を持つ人もいるとは思います。

ワンガリ・マータイは、ケニア出身の環境保護活動家で、環境分野で初めてノーベル
平和賞を受賞した人物でも(2004年)ありますが、彼女が「もったいない」と言う言葉
に感動し「もったいない運動」というものを世界中に広げようとしたのは有名な話です。
それはこのような「物には魂がある」という日本文化からでてきている言葉とも言える
と思います。

また、日本人に不思議なところは、このような祟りが出るような神もしっかりとお祈り
をすれば、許してもらえるとしているところです。つまり、お祈りして大事にすると
神は全て良い神になると言われています。神様にも二面性があるのですね。

例えば、地獄の神様で有名な「閻魔王」も日本では、「地蔵菩薩」の化身とされて
います。地蔵菩薩は、菩薩の身でありながら天界に行かず、、釈迦の入滅後、
56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため
その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生
(我々、人間)を救う菩薩であるとされています。つまり、良いおこないをした人を
見つけて助けてくれるのがお地蔵さんというわけです。
閻魔大王も「嘘をつくと舌をぬまれてしまう」という言い伝えがありますが、地獄の
門番で、悪いことをした人を、地獄に送る仕事をしています。良い人を見つけたり
悪い人を見つけたりする仕事は、閻魔王もお地蔵さんも同じ事をしているということですね。
立場を変えて見ているだけで、悪い人には、閻魔王ですが良い人には「お地蔵さん」に
なるわけです。

そんなこんなで、日本には、多くの神がいて、その神が怒らないようにお祈りをします。
日照りが起こらないように。洪水が起こらないように・・・・秋田の「なまはげ」
は、「泣く子はいねーかー」と鬼の格好で、家々を回ります。
それを家の人は丁重にもてなします。明らかに鬼なのですが、それを家に招き入れて
大事にもてなすのです。
良い意味で、あいまいさは文化です。白黒つけて「敵だ味方だ」と大騒ぎする事なく、
受け入れて育てれば争いも少なくなるのだろうと思います。
自然を大事にしたバランスを秩序良く守ろうとするものです。

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No.73 「鈴木宗男」 (2010.10.12)

私は、元外交官の佐藤優氏の本は一切読んでいませんが、鈴木宗男氏は、
良い人だったのではないかと言う気がしています。

かれこれ、10年近く前の話であると思いますが、私は鈴木宗男氏を見かけた
ことがあります。

 目が合い、微笑みかけてくれる彼の表情には「あっこの人本物の人物!」という感覚を
覚えさせる力がありました。

それは、青森から札幌へ入る寝台車に乗った時の事でした。今も昔も出張の多い
仕事をしていまして、その時も青森にいました。冬になりかけていた寒い青森でした

寝台車の青函トンネル線の発車時刻は確か、夜の23時頃に乗り込み、翌朝の6時
には札幌に着くような電車でした。

昔は、よく寝台車や寝台バスに乗って移動しました。寝ている間に移動できるので、
時間的に余裕ができるのと、夜のホテル代が浮くからです。今では、ホテル代が
とても安くなったので宿泊したほうが安い場合もありますが、当時は効率化のみを
追求してました。

 ということで、旅がらすの山内は寝台車には慣れています。寝台車の自分の寝床を
確認すると、カーテンを閉めて、自分の小部屋を作ります。そして、カバンを奥に置き、
浴衣に着替えます。
横になり天井を眺めると意外に広いものです。ただ、快適か?と聞かれるとそうでもあり
ません。頭の上の小さなライトを付けて、少し本でも読もうかとおもうのですが、小さな
揺れが気になって、読めず、結局、すぐにライトを消して寝る体勢に入ります。
それでも、なかなか寝付けません。寝台車はシーツが付いているとはいえ布団変りの
座席ベットが少しベトベトします。また、途中、途中の踏切では、その音で目が
覚めます。
「こんな生活をしながら仕事をしている奴も少ないだろうな。」と思わせます。

やっとウトウトしだすと、朝5時を過ぎてきて、そろそろ札幌に着くころになります。
まだ、外は暗い。列車の中は、強い暖房が入っているので、薄着でも大丈
夫ですが、あまり人に見られるのも嫌なので、少し服を着てカバンから歯ブラシと
タオルを手に、洗面所に向かいます。洗面所の水は貴重なので、水の出る量は
抑えられていて、少ししか出ません。それを手桶を作って水を拾うようにして顔を洗
うのです。

寝不足と不自由な列車の中で苦労するのは、お金持ちや偉い人の生活とはちょっと違う
経験ができます。

眠い目を凝らして、洗面所から自分の寝床に戻ろうとすると、そこに鈴木宗男が立って
いました。両端にSPらしき男が2人立っていて、彼は既に、しっかりとしたスーツ姿に
髪の毛も整え、しかも「早起きで眠れなかった。」などという言い訳がまったくない
さわやかな笑顔で私を迎えているではありませんか。
会話はしませんでしたが、目が会った時に
「大変ですね。今日も頑張りましょう。」
と話しかけているような笑顔でした。

北海道選出の彼は、たぶん、私のような労働者を迎えるために朝早く起きて、準備を
していたのであると思います。その時は選挙期間でもなく、しかも、当時の彼の地位で
あれば、わざわざ寝台車で移動しなくても、移動手段はいくつかあるとは思うのですが、
彼はそこにいました。

人の心に印象深い笑顔を残すことは難しいものです。

何十年も生きていますが、男性の笑顔で、心に染みたのは初めてでした(笑)。
彼は良い人だと今でも思っています

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No.72 「わびさび」 (2010.10.5)

裏見せて
 表を見せて
  散るもみじ

良寛の時世の句と呼ばれています。40歳以上離れた貞心尼の前で、
危篤の床についた時に、うたわれた言葉と言われています。
良寛は、ご存知の通り、江戸後期の僧侶です。目の前の自然と戯れて、
そのものの生き方を詩にしています。その表現は、私には拙くて
できませんが、山や川や人の自然の摂理や時間そのものをも表現する
ような素晴らしさがあります。

今年は、とても暑い夏を過ごしました。季節感も強烈な変化が普通になって
きてしまっています。暑いと徹底的に暑く、雨が降ると徹底的に降る。
「ちょっと待ってよ。」と言いたくなる。
季節感くらいは、ゆったりとした時の上で、感じたいなと思います。

四季を感じ、その折々の時間の中で物思う時に『わびさび』を感じる。
季節は、人としての厚みを作るものでもあると思いますので、時間は、ゆっくりと
動いて欲しいと思います。

良寛は曹洞宗に属し道元の『正法眼蔵』の章を読み砕いて、その内容を自分の体の
一部として吸収し、それを詩として目の前の自然と自分の言葉で表現しています。
良寛が修業をしたと言われる円通寺 曹洞宗は、禅を組み、自らが悟りを
開く、「自力(自力という言葉が、あいまいですので、表現が難しいのですが
自ら座を組み、厳しい修行をするものと表現してみました)」を主としている宗派と
言われています。仏教の教えは、宇宙の真理を理解することですから、それを
自ら座をして、悟りを開くには、恐ろしいほどの精神統一が必要だったことでしょう。

前述の『正法眼蔵』は、哲学的であり、その読みこなしは、専門の先生でなけれ
ば、なかなか読み込めるものではありません。私には、良くわかりません(笑)
ただ、自力と他力には隔たりがあるように思われるのが通常です。一般的に食事等の
普段の生活にも厳しい戒律のある曹洞宗においても、良寛は、自由に振舞ったと言われて
います。
良寛の句にはこのようなものもあります。

 良寛に
  時世あるかと
   人問はば、

  南無阿弥陀仏と
   言ふと答えよ

南無阿弥陀仏は、浄土宗や浄土真宗の表現であり、他力を中心とした言葉です。
南無阿弥陀仏を唱えれば、誰もが極楽にいけるという考え方で、厳しい戒律があり
悟りを開く曹洞宗とは考え方は違います。

なぜ、宗派を超えて、このような詩を残したのかは、色々と考え方があるようですが
教えが多くあっても、仏の道は一つであることを伝えたかったのではないかと思います。

散る桜
 残る桜も
  散る桜

 わびさびって良いなと思います。9月はお月さんがきれいです。

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No.71 「夢の追いかけ方」 (2010.9.9)

夢の追いかけ方

本を書きました。
5年ぶりの2冊目の本です。前作は、当社の事業に絞り込みロスプリベンション
という内容で、書かせて頂きましたが、今回の書籍は、幅広い層に読んで頂く
ために、小説風の経営入門書とさせて頂きました。

早稲田の野球部出身の伊藤大輔が、卒業後に起業を志して、色々な経験をして、
起業までたどり着くものです。

あくまでフィクションです。確かに私の経験を元にしている部分が多々ありますが
私の経験は、停滞期が長く、そんなものを読んでも面白くないと思いましたの
で(笑)、まったく別人の経験として書きました。

既に、多くの方に読んで頂き、ご感想を頂いておりますが、大変好評です(笑)
正直に申し上げて、本当に多くの人に読んで頂きたいと心から思っております

難しい時代になってしまい、起業を志すどころか、自分の生活を維持する
のにも必死の時代になってしまいました。
ただ、ちょっと大げさですが、仕事を通じて、人の成長を促すことはとても
大事なことであると思います。仕事を通じて、大きな志を持つようになった人
は間違いが無く良い人生を送られると思います。

『野心と志は違う』と言う言葉を本の中で引用しております。これは
三略会という社長さんが集まる会の主宰・橘三朗先生の言葉を引用させて頂きました。
本当にその通りだと思います。
私は野心とは卑下された生活の中から、自分の性格を形成し生まれてしまうものですが
志というものは、良い教えや良い行動の中から生まれるものであると思います。
つまり、志とは経験や自分の師から学ぶもので、野心は、自分の性格を形成する環境
から生まれるものであると思います。

自分の意思で、造り上げた志というものは、本当に強いものであるはずです。
それを表現できればと思いました。
ご一読して頂けますと幸甚です。

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