今月の6月24日で満50歳になりました。
私はここ数年の間、この50歳を迎えることを心待ちにしておりました。
それは、私が、天命を如何に理解することができるかを知りたかったからです。
ダイエットまでして、身を清めてこの日を迎えてみました(笑)
15にして学に志し
30にして立つ
40にして迷わず
私は、15にして、野球に志し、夢やぶれて(笑)
28にして、企業しました
37歳の時に父が他界し、40歳で、仏教書を読み漁りました。
多くの人が、この有名な論語の一節を自分の経験と重ね合わせて、自分の年齢を振り返ることがあると思います。
私の40歳代前半は、不惑とは程遠く、迷いと失敗の連続でした。ただ、失敗を繰り返しながらも迷いを確信に変える術を知りました。前進とは、闇雲に前に進む事ではなく、時には、後退しながらも、目標を見失わず、探求する創造力と安易を振り捨てる勇気と意志で、自分が必要と思えるモノを磨き上げることです。それが出来れば、失敗を乗り越えて正面から切り込むことができます。本当の前進を知るということが、私にとっては惑わないという意味でした。私は40歳代後半で、不惑を確立できたと思います。
そして、50歳は、知命です。知命とは、天から自分の生まれた理由を知る事。
年齢を積み重ねるだけで、それを知ることはできないのでしょうが、それを知る術があるのであれば、教えて頂きたいと感じていました。
この世界の全ての事象は、起こりうる理由が必ずあり、それが結果として現れているだけに過ぎません。陽の光が川の水を暖め、水分を蒸発させ、雲ができます。光合成も生物の営みによる進化も、人が作り出した原子力発電所すらも自然界の法則から外れることはありません。
自然や生き物がその事象の絶妙な天秤のバランスに成り立っています。そうでなければ、生態系は維持できません。もちろん人も自然界の一つの事象に過ぎません。バランスを担う小さな小さな存在ではありますが、一人一人が生まれてきた理由は必然的にあるのです。
ただ、まさか、50歳になったら天から声が聴こえるはずもなく、自分の心に呼びかけて
偽りなく全てを掛けられるものが何かを自分で感じるしかないでしょう。
人の心を荒ませて、迷惑をかけ、時には、本当にどうしようもないことをしてしまっている私が、烏滸がましいのですが、私の天命は、人の心を済うことであると確信しています。人を済うことで、私の心の罪が少しずつ消えると感じています。それが実現できるのであれば、自分の命は惜しくありません。私のような貧乏経営者は、生活と人生が一致しており、仕事を通じてでしかそれを実行することしかできません。私は仕事を通じて、多くの人の心を済いたい。それが使命です。そのことに全てを賭けたい。私が50歳までに経験した全ての苦悩は、人の心を済い、自分自身を済う為にあったことでした。
六根清浄という言葉があります。六根とは、視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚に意識というものを加えたものです。それを客観的で、汚れなく純粋に、清らかに保つことで、心を済う基本となる教えです。
この五感を清らかに受け入れ、判断することが、多くの人の心を済える基本です。先入観や邪な考えがあると正確な判断はできません。
私は仕事を通じで、心を済うセンシング技術を今後の人生をかけて開発し、多くの人に拡げられる工夫をしていきたいと思います。
今後ともよろしくお願いします